井伊社
動乱の南北朝時代(西暦1330~1390年頃)、有力豪族であった井伊家の第十二代当主井伊道政(みちまさ)公とその息子高顕(たかあきら)公は、井伊谷に来訪された後醍醐天皇第四皇子宗良親王様(井伊谷宮御祭神)を奉じて尽力しました。加えて親王様と駿河姫(道政公の娘、重子(しげこ)姫)を結びつけ、尹良(ゆきなが)親王を授かり、こうした御縁を得て吉野朝(南朝)と非常に深い関わりを持ったことをこの上ない名誉と思い、それが井伊家の誇りともなりました。
やがて勢いを増し大挙して押し寄せた足利勢に対し井伊家は奮戦空しく敗退し、以降今川氏(足利氏の流れ)や武田氏といった強大な勢力に囲まれ長い苦難の時代を迎えます。
しかしながら親王様を旗頭として吉野朝のために戦ったという連綿と受け継がれた自負と気概は、その後井伊家を下支えする原動力となりました。
中でも道政公から数えて10代後、大河ドラマともなった、女性ながら第22代当主となった「井伊直虎」は、苦境に立たされた井伊家を存続させるべく周辺諸国の様々な圧力や干渉の中を類まれな判断力と領地運営力で乗り切りつつ、後の徳川四天王となる井伊直政を育て上げ、井伊家再興の礎を築くこととなります。
こうした井伊家と皇室の結び付きは明治期の井伊谷宮創建に際しても変わらず表され、親王様の御墓整備並びに井伊谷宮御鎮座が井伊家の多大なる貢献によって整ったことにより、明治八年井伊道政公・高顕公を御祭神として「井伊社」が井伊谷宮本殿横に創建されました。
また井伊家より粟田口国綱(天下五剣鬼丸国綱を作刀した刀匠)作刀の太刀が奉納され、重要文化財として現在東京国立博物館にて管理しています。
昔から刀は邪を祓う神聖な力があるとされ信仰の対象ともされてきました。当宮では災いを祓い断ち切る守り刀としてお持ちいただく「真剣守」に加え、太刀の御朱印もございます。